東京高等裁判所 昭和39年(ネ)179号 判決 1966年2月15日
控訴人 安野一成
右訴訟代理人弁護士 両角誠英
被控訴人 日本信託銀行株式会社
右代表者代表取締役 下村正次
右訴訟代理人弁護士 佐々野虎一
同 小林孝二郎
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実
控訴代理人は「原判決を取り消す。被控訴人は控訴人に対し、金九〇〇万円およびこれに対する昭和三六年一〇月一一日より右支払ずみに至るまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は主文第一項と同旨の判決を求めた。
当事者双方の陳述した事実上の主張、証拠の提出、援用および認否は、左記のほかは、原判決の事実摘示と同一であるから、これを引用する。≪中略≫
控訴代理人は次のとおり述べた。
不渡手形の支払義務者が該手形金を支払って不渡届の撤回を希望する場合、持出銀行は依頼の趣旨に従い自ら不渡撤回届を作成した上これを手形交換所に提出して右不渡届の撤回を求めることができるのであって、その手続のために必ずしも支払義務者から不渡撤回依頼書を徴しなければならないものではない。けだし不渡届撤回の依頼は支払義務者―依頼者―と持出銀行との関係にすぎず、依頼者と手形交換所の直接の関係ではないからである。もっとも東京銀行協会東京手形交換所社員総会決議「信用に関する一定の返還事由の手形不渡届取扱い」によると(3)の(注)として「持出銀行が撤回をしようとする場合は支払義務者(または入金人)より依頼書の提出を受けること」と指示されているが、右は該手続取扱上の注意を示したものにすぎず、その取扱を強制されているものではない。現実に持出銀行が支払義務者より不渡撤回依頼書の提出を受けないので手形交換所に不渡撤回届を提出し、銀行取引停止処分を免れる例も珍らしくないのであって、持出銀行がかかる措置を採ったがために銀行協会より除名処分などの制裁を受けることはないのである。
被控訴代理人は次のとおり述べた。
不渡手形の支払義務者が該手形金を支払って不渡届の撤回を希望する場合持出銀行は支払義務者(又は入金人)から不渡撤回依頼書を徴しなければならないものであって、このことは東京銀行協会東京手形交換所社員総会決議によって定められており、右決議は商慣習ないし民法第九二条にいう事実たる慣習として右手形交換所に加盟する金融機関およびこれと取引する者を覊束するのである。そうして右銀行協会の社員である被控訴銀行が右決議に反する取扱いをしたときは東京銀行協会定款第一一条により除名処分を受け、他の社員銀行あるいは信託銀行との営業上の取引を停止され、更に東京手形交換所における手形交換もできなくなるのである。控訴人は訴外東京信用金庫と当座取引を始めるにあたり右商慣習ないし事実たる慣習に従う意思を有していたものであるから、被控訴銀行としてはかりに控訴人が不渡手形を買い戻したとしても、不渡撤回依頼書が提出されない以上その手続をなす義務を負わないものである。
証拠≪省略≫
理由
一、まず控訴人が被控訴銀行に対し不渡届の撤回を依頼した事実があるかどうかについて判断する。
控訴人は、控訴人が昭和三六年五月三一日中央区日本橋通三丁目所在の被控訴銀行本店において同銀行の当該業務担当の職員である訴外小堤勲、同両角正三らに対し即刻東京手形交換所に対して本件手形の不渡届撤回の措置をとるよう申し入れたところ、右訴外人らはこれを承諾し、早速にその措置を講ずるよう約した旨主張するが、≪証拠省略≫中右主張に副う供述部分は後記各証拠に照らしてにわかに措信し難く、他にこれを認めるに足る的確な証拠はない。かえって、≪証拠省略≫に弁論の全趣旨を総合すると次の事実を認めることができる。
控訴人は訴外東京トヨペット株式会社に対し、自動車買受代金の分割支払のため、かねて控訴人が当座預金取引をしている訴外東京信用金庫江戸川支店(以下訴外金庫という)を支払場所と定めた控訴人主張の内容の約束手形二四通を振出し、訴外東京トヨペット株式会社はこれらの手形をその取引銀行である被控訴銀行に逐次取立委任のために裏書し、同銀行を通じて訴外金庫の控訴人の当座預金から手形金の支払を受けていたところ(右約束手形の振出および取立の点は当事者間に争いがない)、たまたま昭和三六年五月三〇日満期の本件約束手形については預金不足の事由で支払を拒絶され、該手形は訴外金庫から持出銀行である被控訴銀行に返還されるとともに、東京銀行協会東京手形交換所交換規則およびこれに附帯する同社員総会決議(この規則及び決議については、後記二参照)の定めるところに従って、訴外金庫および被控訴銀行の双方から手形交換所に対し不渡届が提出された(右約束手形不渡の点は当事者間に争いがない)。これよりさき、控訴人は本件約束手形の満期当日訴外金庫に当座預金残額を確かめ、その預金高が本件約束手形を支払うに足りないことを知ったので、同日中に所要の金額を入金する約束をしていたが、たまたま訴外金庫に赴くのが預金事務取扱終了時間である午後三時より約三〇分遅れたため入金できず以上のとおり不渡届提出の措置がとられることになった。そこで控訴人はやむなく翌三一日右不渡手形を買い戻すため被控訴銀行本店に開店早々赴き貸付課窓口において当該業務を担当していた同銀行職員訴外小堤勲に対し右不渡手形買戻の希望を申し出るとともに、別途控訴人が訴外東京トヨペット株式会社宛に振り出していた昭和三六年五月三〇日満期の延期手形(前示二四通の約束手形のうち同年四月三〇日満期分の書替手形として振り出されたもの)についても不渡返還されていないかどうかを確かめたところ未だ返還されていない由であった。控訴人は、その手形についても併せて買い戻す準備をしていた関係で訴外金庫と同東京トヨペット株式会社に電話で連絡し、その事情を聞きただしたもののごとく、再び貸付課の窓口に戻って来たときは、何故か興奮し、憤然として訴外小堤に相対していたけれども、ともかく右不渡手形を買い戻す手続は終了した。その際訴外小堤が被控訴銀行備付の不渡撤回依頼書用紙を差し出し、もし不渡届の撤回を希望するのであれば右用紙に署名捺印して提出するよう勧め、かつ被控訴銀行としては依頼書の提出がなければ手形交換所に不渡撤回届をすることができないのでその結果控訴人が取引停止処分を受けることになることを説明したにも拘らず、控訴人はこれに耳を藉さず「そういうものは必要ない、撤回もくそもあるものか」と応答して依頼書の提出を肯んじないばかりか、口頭で依頼の趣旨を明らかにすることもなく、あまつさえ訴外小堤から返還をうけた本件約束手形をその場で破り棄て、そのまま帰ってしまい、その後撤回届出期間(交換日から起算して営業日三日目の営業時間まで)内に依頼書を提出しなかった。そのため被控訴銀行では控訴人の不渡届撤回依頼の意思がないものとしてその手続を採らなかった。
他に右認定を動かすに足る証拠はない。
二、そこで被控訴銀行が手形交換所に不渡届撤回の措置を講じなかったことの当否について判断する。
≪証拠省略≫に徴するに、東京手形交換所は、社団法人東京銀行協会が経営し、右銀行協会に加盟している社員銀行が収受した手形小切手等の交換決済を、東京手形交換所交換規則にしたがってしているものであるが、手形不渡届の取扱については、社員総会の決議「信用に関する一定の返還事由の手形不渡届取扱い」(昭和三五年一〇月一〇日実施)によりその細目が定められているのである。ところで、右交換所交換規則および右決議によると、東京手形交換所の加盟銀行が同交換所において交換に付した手形が支払を拒絶され、持出銀行に返還された場合において、それが「預金不足、」、「資金不足、」、「取引解約後」、「当座取引なし」および「取引なし」の事由によるときは、手形義務者の信用に関するものとして持出銀行および支払銀行の双方から手形交換所に対し所定の書式によりその旨を届出るべきものとされている(同交換規則二一条および右決議(1)(2)項)。このように各関係銀行に手形交換所に対する不渡手形の届出を義務付けているのは、これにより手形交換所が、信用できない手形義務者を確知し、その者に営業上致命的な打撃ともなるべき取引停止処分という厳格な制裁を課することによって不良手形を追放し、手形取引全般における信用を維持せんとするためであるから、手形義務者が事故手形を買い戻すなどの措置を講じて信用の回復に努め、不渡の届出を維持する必要がなくなったときは、持出銀行にかぎり手形交換所に対し不渡届の撤回手続をとることができるものとされているのである(前掲決議(3)(4)項)。このような制度の趣旨にかんがみると、およそ不渡撤回の届出は、本来事故を解消して信用を回復した手形義務者においてその事実を示し、これを認めた持出銀行に依頼してその提出を求めるべきものであって、持出銀行が当然に手形交換所あるいは手形義務者に対しこれをなすべき義務を負うものとは解し難いのであり、かつまた前掲交換規則および社員総会決議にもそのような義務のあることを認むべき根拠はないのである。
してみれば、持出銀行は手形義務者から依頼を受けることによりはじめてその者に対し不渡届撤回の手続をなすべき契約上の義務を負担することになるものというべきであるから、前段認定のとおり被控訴銀行が控訴人よりその依頼を受けた事実の認められない以上、不渡届撤回の手続をとらなかったからといって、被控訴銀行を責めることはできないといわなければならない。
三、前顕乙第二号証のうち前示社員総会決議(3)項には(注)として「持出銀行が撤回をしようとする場合は支払義務者(または入金人)より依頼書の提出を受けること」を指示しているのであり、≪証拠省略≫によれば、関係銀行は、概ね、前記決議にもとづく通達によって定められた方式に従い、支払義務者から不渡撤回依頼書を徴した上で撤回の手続をとっていることが認められるのである。しかしながら、右は主として関係銀行が手形義務者の意思を明確に把握するための最も適切な手続上の取扱方法として注意的に指示したものにほかならず、不渡届撤回の依頼は右の方式、すなわち依頼書の提出によってしなければ関係銀行として不渡届撤回の手続をなしえないものとまで解することはできないのであって、現に関係銀行において依頼書の提出なくして右手続をなす例のあることは原審証人秋田正一および当審証人上原聡の証言によってもこれを肯認しうるのである。この点に関する被控訴人の主張は採用し難い。
さりながら、このことは決して右依頼書の提出を手形義務者の任意に委ねていることを意味するものではない。けだし多数の顧客を擁する関係銀行が煩瑣なその取引業務を円滑かつ迅速に処理するためにその手続方法を画一的に様式化することは避け難いのであって、これがまた事務処理上齟齬なきを期するゆえんでもあるから、およそ営業の手段として金融機関を利用しその便益を得ようとする経済人としては、緊急やむをえない事由により依頼書を提出することができないなど特段の事情の存する場合は格別として、その他一般には、たんに署名捺印の一所為によって簡易になしうる依頼書作成の手続を煩瑣なものとして回避すべきではないのであって、あえてその労を厭ったがために関係銀行において依頼の意思がないものとして取扱われることがあったとしても止むを得ない場合があるのであり、それによって蒙る不利益を甘受しなければならないことも生ずるのである。
もっとも、一般的に手形義務者が事故手形を買い戻す場合取引停止処分の制裁を回避しようとする意図を伴うことが多いとは考えられるが、常に不渡届撤回措置を依頼する意思があるものとはにわかに断じ難いのであり、手形義務者が事故手形を買い戻しながら右撤回届の依頼をしない例の必ずしも珍らしいことでないことは当審証人小堤勲の証言によってもこれを肯認しうるところであるので、控訴人が本件金額三一、七〇〇円の事故手形を買い戻した事実のみによって右依頼の意思あることを忖度しうるものとは到底なしえないのである。
飜って本件についてこれをみるに、控訴人が被控訴銀行職員訴外小堤から不渡届撤回依頼の趣旨を説明され、これを提出するようにとの勧めを受けながら、あえてその提出を肯んぜず、また口頭で依頼をした事実もなかったことは前段認定のとおりであるところ、本件において控訴人が依頼書を提出しえなかった特段の事情は認められないのであるから畢竟控訴人の右所為はその恣意によるものと認めるのほかなく、かかる場合に被控訴銀行が控訴人の依頼の意思がないものと判断して不渡届撤回の措置を講ぜず、そのため控訴人が取引停止処分を受けたとしても、被控訴銀行に咎めらるべき過失があるということはできない。
してみれば、控訴人が被控訴銀行に不渡届撤回の手続を依頼し、同銀行がこれを約諾しながら故意または過失によりその手続をとらなかったことを前提とする控訴人の本訴請求は、その余の点の判断をまつまでもなく理由のないことが明らかである。
よって、控訴人の本訴請求を棄却した原判決は相当であって、本件控訴は理由がないから、民訴法三八四条一項を適用してこれを棄却することとし、控訴費用の負担につき同法九五条、八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 三淵乾太郎 裁判官 伊藤顕信 土井俊文)